不定期コラム


神さまとお金   

銃規制は厳しいか   

休ませてください   

小心者   

オリーブの実り

縁起物

教会とこども

∞(無限)プチプチ

生きるって素晴らしい

毎日が倫理問題

リードオルガン

恐れまい!

人間と宗教

自己正当化

さよなら、サイレント・ネイビー

クマゼミ

私はなりたい

それ、本当に幸せ?

ゼロトレランス



おまえ

適材適所

キリストの棺

9条のキキ

戦争なんか嫌

代理母出産

大犬の睾丸(オオイヌノフグリ)

川内康範さん

赤ちゃんはどこに届くのか?

タミフルは飲ませない?

さわる

誠実な者

エコカッコイイ

納豆ダイエット

心の中の小ビン

闇の中の光 〜アーミッシュの村の事件から〜

神経症は君だけじゃない

聖書の読み方



神さまとお金


先週から報道されている「神世界」による霊感詐欺事件の被害は百億円とも言われる。
手かざし系の神○秀○会から更に枝分かれした宗教詐欺グループと言えば分かりやすいだろう。
金で神様と直接幸福の取引をするという何とも下品な教えであり、
そこに健康、先祖供養、因縁、改名といった内容が入り込み、
日々の御礼、パワーを使うライセンス料ということでまた金を取る。
事柄はくだらない。
思慮が浅い。
神仏に対して不遜である。
でも、百億円の被害の背後には、数多くの人間の満たされない日々の暮らしがある。
クリスマスどころではない闇に包まれて生きている人たちが今日もいる。

「神様はお金なんか使わないのに…」と言うのは問題発言になるだろうか?
「献金だって神様に献げられてるんじゃないの?」と考える人もいるかもしれない。
「確かに神様はお金を必要としないけれど、献げる心をお喜びになる」と言い換えようか?
その場合、金額の大小は問わないはずなのだが…。

献げる心に焦点を合わせると、時に間違いが起こる。
だから私はこう言おう。
献金はそれにより神の御心がなされるためにある。
誤解を恐れずに言えば、必要があるなら集められるべきだし、必要がないなら集めなくてもよい。

では、献金が集められる必要のある、なされるべき神の御心とは何か?

銃規制は厳しいか


佐世保の銃乱射事件に関する報道の中で、
「銃の規制が厳しい日本でなぜ?」という言葉を見つけた。
この記者はそういうイメージを持っているのだろうが、
山奥育ちの私には、これはちょっと受け入れられない。
私の田舎では、銃なんて、おっさんたちは結構持っていた。

焼酎を飲みながら、山に猪を撃ちに行く。
町議会議員とか、ちょっと金回りが良くなったおっさんの趣味はゴルフか「鉄砲撃ち」。
ろくなもんじゃないと、私は軽蔑していた。
そして、下手クソが、やぶがガサガサとなった途端に散弾銃をブッ放すものだから、
時折り仲間に撃たれる人がいたが、だからといって大問題になったことはない。
どんなルールかは分からないが、田舎には田舎のルールがあったのである。

日本には○○○○系の銃砲店がかなりの数あるし、
彼らがまだキナ臭かった頃、
信者の学生たちが数百丁規模で○○○○系企業製の「競技用ライフル」を所持したことも、
その銃の在庫が膨らんで困り、ライフルの訪問販売をしていたこともある。
暴力団の抗争では必ず銃が使われる。
ネットで調べれば、入手方法が書いてあるサイトがたくさんある。
射撃訓練のため海外に人を派遣するカルトもある。
日本の銃規制のどのあたりが厳しいのか、私にはまったく理解できない。

休ませてください


本の原稿の締切が迫り、夢にまで見る状態に追い込まれているのに、なお書けないでいる。
こういう時、妙に台所に立ちたくなるのが私の悪い癖で、
しなくて良い料理をせっせと始めるものだから、
「煮詰まってるの?(もちろん料理がではない)」と家族に憐れまれる始末である。

もう本当にヤバくなってきた。まだ半分しか書けていない…。

聖書を開くと、
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」
との言葉に行き当たる。
マタイ福音書11:28にある有名な聖句であるが、何と皮肉なことだろう。
休ませてはくれるが、この重荷を取り去ってはくれないのだ。
そう、私は重荷を背負うことから逃げられない。
簡単に逃げられるくらいなら、それを重荷などと表現すること自体、間違っているのだろう。
それに、逃げてはいけないことも分かっている。
イエス様は、これを背負うために私を選ばれたのだ。
結局、どんな重荷を背負っていても、休ませていただけることに感謝すべきで、
休みながら背負う重荷には潰されないんだろうなと思う。
だから、大きくため息をついたら、再び顔をあげてみよう。

この原稿は〜〜伏せます〜〜に掲載される予定である。

小心者


クリスマスの直前は忙しすぎるので、この時期に家族で出かけてみた。
日曜も祝日もない仕事だから、子どもたちには不自由な思いをさせているのだ。
そして、買い物から食事へと、お決まりのコースをたどっていくわけだが…、
注文してふとテーブルの隅を見ると、メールでのアンケートと抽選の案内がある。
私としては実に珍しいことなのだが、早速携帯を取り出してやってみた。
そして、幾つかの質問に答えて送信すると、

「おめでとうございます!」。

なんと食事代のうち8000円が帳消しになってしまったのだった。
何が起こったのか、すぐには理解できなかった。
ぬか喜びだとかっこ悪い。
いたって冷静に、妙に小声で妻に話す。
次にしたことは、その時点での食事代の計算。

まだ食えるじゃないか!

子どもたちにデザートをすすめる。
その後、当選者の記念撮影があり、いよいよレジに行く。
家族5人でレジのお姉さんを取り囲んで、にらむ。

「○○○円です」。

その時、私の口から出たのは「すいません」という一言だった。
そして、謝りながら店を出てからは、後ろをチラチラ気にしながら、
「追いかけて来ないか」と気にしながら歩く。
そして、「もう来年の運も使い果たしてしまった」と私は考えていた。
ああ、小心者…。

オリーブの実り


今年もオリーブの果が実った。
植えた時には10センチほどだったが、いつの間にか背丈より大きな木になってしまった。
昨冬の刈り込みが足らなかったようで、果の付き方はもうひとつだが、
枝によっては鈴なりの実りを見ていると、やはり嬉しくなる。

聖書にはオリーブがしばしば登場する。
油といえばオリーブ油のことである。
灯火にもオリーブ油を使う。
また、私たちになじみ深いオリーブ山の中腹のゲツセマネは「油しぼり」という意味である。
この園にあるオリーブの古木は樹齢2000年と普通言われるが、
オリーブの樹齢は条件が良くても800〜1000年らしい。
だからイエス様が直接触れた木はもうないだろう。
しかし、その古木の周囲から生え出た、
命のつながっている木なら確実にあるだろうと言われている。

油をしぼってパスタに…というのが私の抱く野望なのだが、なかなかうまくいかない。
(ごく少量とれた。市販のオリーブ油とは比べ物にならない、フルーティーな味わいが楽しめる。)
そこで、今年は今週あたり収穫して、塩漬けにしてみようと思っている。

関心のある方は、果をつぶして出てくる油を手にすり込んでみてほしい。
独特の臭いがあるので手洗いも必要だが、その後はスベスベ・ツヤツヤになれる。

欲しい方は幾つ収穫していただいても構わない。
植えれば生えてくるかもしれないし…。

〔もどる〕
縁起物
一日中、外回りの作業をしていた日の夕方、おばさん2人がやってきた。
おばさん2人で教会に来るといえば、勧誘か選挙か…、
いずれにしろ99%の確率でカルト宗教の関係者だ、間違いない!

私は汚い作業着姿で汗だくでヘトヘト…、
気乗りしなかったが、実は先週、毎日、泉町内で統一協会の物売りを目撃していて、気になっていた。
なので仕方なく応対…。

姓名判断の葉書を出しながら、「縁起物の印鑑なんですが…」って、いきなりか!!
(作り笑いが気持ち悪い)。
社員ですか? アルバイトですか?
「いえ、私たちはボランティアで…」。
訪問販売法、知ってます? 身分証明書を見せていただけますか?
「いえ、あの…」。
これ統一協会でしょ?
「私たち関係ないんですが…」。
なぜ嘘をつくんですか? あなたがしていることは詐欺になるんですよ。
「関係ないんですが…」。
警察に来てもらいましょうか? こんなことをするために、学び始めたわけじゃなかったでしょう。
「葉書返してください。また、ご縁がありましたら…」。
ええ、嘘にはお付き合いできませんが、いつでも相談に来てください。

蛇足になるが、キリスト教信者は、神が愛であること、
神が歴史・万物を支配されていることを信じる限り、
縁起物で運勢を変えようなどと発想することはない!!
でも、バザーで吹田教会じるしの縁起物売ったら、
案外売れてしまったりして…。
おぉ、怖い、怖い…。
〔もどる〕
教会とこども


学校の行事に出かけるのは気分が重い。
我が子をあんなとんでもない所に行かせていることを、申し訳なく思ってしまう。
テレビ・新聞で報じられるような子どもの世界が、遠くではなく、すぐそこにひろがっている。

子どもだけが悪いのではないだろう。
子育てをする親のモラルのなさ、無責任ぶりに、唖然とさせられることが多い。
教師の質にも…苦言がたくさん思い浮かぶが、やめておこう。
分析と原因探しをするのは私の勝手だと思うが、
それで我が子が毎日のように持ち帰る問題に対処できるわけではない。

情けないが、私は今の子どもたちの世界を理解できていない。
それは私の常識を超えたところにある。
でも、ひとつだけ分かる。
それは、子どもを集団で扱うのではなく、個別に向き合っていく必要があるということ。
学校では限界があるかもしれないが、教会は教会だからこそそうしなければならない。

かつてのCSのイメージも、その古くさい子ども像と共に捨てなければならないのではないか。
集めようとしても子どもは忙しい。
物を配らなければならないほど貧しくはない。
行儀良く話を聞けでは通用しない。
福音の種まき論は子どもの今の必要を直視していない。
教会が変わることができないなら、自己満足のための活動に過ぎないということになるだろう。
私たちは変わるべきなのである。

〔もどる〕
∞(無限)プチプチ


9月22日、ついに売り出されました! 無限プチプチ。

プチプチとは、小難しくはエアパッキンという名前で、
ポリエチレン製の無数の気泡をシート状にした、壊れやすいものを包む緩衝材のことである。
このプチプチをおもちゃにしてしまったのが、バンダイの無限プチプチ(819円・全5色)なのだ。

プチプチをしたことのない人が、どれくらいいるだろうか。
あの気泡を押して、潰してみたくなるのは、人間の本能によるらしい(アフォーダンスという言葉で説明される)。
1つずつ潰したり、握って潰したり、踏んで潰したり、ダイビングして潰したり、しぼって潰したり…。
あの音、あの感触、いつまでたっても飽きずにやっていたものである。

ところで、皆さんはご存知だっただろうか。
プチプチのマルの中に、ハート型のものがひそんでいるということを。
どうやら1万個につき1個の割合で、私たちをプチハッピーにするために、ハート型が仕込まれているらしい。
こころにくい演出である。
そこで、この無限プチプチだが、
感触も音もリアルに再現した8個のプチプチを無限に繰り返せるというだけでなく、
100回に1回の割合で奇妙な音が混じるサプライズがあるらしい。

う〜ん、欲しい!! 今、訪問の手みやげにするなら、無限プチプチ、これしかない!!  

〔もどる〕
生きるって素晴らしい


田原米子さんは高2の時に鉄道自殺をはかり、
右手の小指と薬指、左腕すべて、左足はひざのすぐ下から、
右足は足首の近くから下を失った。
一昨年、彼女が67歳で天に召される数か月前に、
電話でお話しさせていただくことができたのだが、
私が彼女にお会いしたのは彼女が45歳の時だった。

 彼女は私に手を差し出して、「この手はいろんなことができるんです」と自慢した。
掃除も、洗濯も、子育ても、すべてその3本の指で担ってきたと言う。
そして、彼女は包丁とまな板を取り出して、私のためにりんごをむいてくれた。
丸いりんごを、3本の指でどうやって…?
皆さんもその方法を考えてみてほしい。

「3本しかない」という生き方、「3本もある」という生き方、
それは単なる発想の転換ではなく、生き方の転換だったのだろうと思う。
やせ我慢?ではなかった。
米子さんの表情の輝きは、クリスチャンというものを嫌悪していた私をもひきつけた。
そして、私は米子さんとの出会いを通して、
信仰に生きる人の豊かさを受け入れることができた。

米子さんは何冊もの著書を残されている。
その中でも、『生きるってすばらしい』という彼女のメッセージを、最近よく思い出す。
今は本もビデオもあるらしく、ビデオを注文してみたので、
届いたら教会に集う皆さんにも、米子さんと出会っていただこうと思っている。

〔もどる〕
毎日が倫理問題


 「その地位を利用して個人情報を得、次第に接近して、
個人的に親密な関係になっていった…」なんて文章を見ると、
「それどこのパワハラ、セクハラの話?」となるだろう。

でもそうじゃない。
これはよくある牧師さんと信徒さんの話である。
その後、結婚する人も、しなかった人もある。
結婚すれば万事OKみたいな空気もある。
ただし、これが教師と生徒、医師と患者だったら、
「けっこう際どいぞ…」ということになるだろう。

 牧師の倫理という学問の領域はたぶんない。
「異性と金には注意しなさい」くらいは神学校を出る頃に言われるが、
牧師の仕事はひたすら個々人の信仰と良識に委ねられる。
善意と情熱に委ねられる。
何といっても「聖職者」なのだから、間違いを犯すはずがないし、
もし犯しても、悔い改めて自ら戻ってくるのである !

 もちろん、私がそう書くのは本気ではない。
牧師の仕事と職業倫理の問題は絶対に切り離せない。
個々人の信仰心は万能ではないから、間違いを犯す者は多くいる。
罪の自覚から逃げようとして、更に罪を犯す。
宗教界がパワハラ、セクハラの温床であるのは、
その伝統にも信仰による価値観にも構造にも問題があるからだが、
私たちはそれをどこまで自覚しているか?
自己吟味の目をもたなければならない。

〔もどる〕
リードオルガン


オルガンの販売・修理をしている京都の業者からパンフレットが届いた。
ウン千万のパイプオルガンの宣伝は無視するとして、リードオルガンの修理には興味津々…。
私たちの教会の思い出と切り離すことのできない大切なもの、リードオルガンは、
もう日本では製造されていないのだそうだ。
教会の2階にも、壊れたオルガンがある。
修理しようか?何度か考えてみたことがある。
業者に頼むお金はないから、やるなら手作業になる。
日本語に限らなければ資料は案外あるし、部品を同じ材質で手作りしていけば…。
丁寧に作業していけば、工作は苦手じゃないし、何とかなるかもしれない。
いずれは捨てられるのだから、更に壊してしまうことになってしまったとしても、チャレンジしてみる価値はある…。
あれこれ考えるが、いつも指一本手出しできず終わる。
私の忙しさが一番の理由だが、「やはり壊すわけにはいかない」というブレーキがかかるのだ。

結局、今もそれは壊れたまま、誰からも触れられず、たたずんでいる。
いつか修理してあげられるだろうか。それとも、いつか捨てられてしまうだろうか。

教会は赤字だが修理してあげたいな…。価値観がおかしいのかな…。
また迷っている。

〔もどる〕
恐れまい!


母教会(私が洗礼を受けた別府教会)が創立百周年を迎えるそうで、
督促に観念して記念誌の原稿を書いた。
家族3代に及ぶ関わりだから様々な記憶の断片があるし、
ここ40年の牧師全員について思い出がある。
それでかなり迷った末、祈りの人だった老牧師のことを書いたのだが、
実はもうひとつ捨て難い題材があった。
それはFさんという白髪の証し人のことだ。
彼女は当時CSの先生で、当時の私にはさっぱり分からない「お話」をされる人だった。
(もしかすると今聞いても、やはり分からないかもしれない…)
若い世代の先生が数人いて、大筋の楽しい雰囲気は
その若い先生たちが作っていたわけだが、Fさんは違う。
背筋をピンとのばし、懇々と語る、別格の聖なるおばあちゃんだった。

お話がさっぱり分からなくても、伝わる話がある。
私のいちばん好きな、そして記憶に残る先生は、このFさんだった。
私もさっぱり分からない話をすることを恐れまい!
さっぱり分からず、何も伝わらない「お話」をして自爆する可能性も大であるが、恐れまい! 恐れるものか!
主がお用いくださるであろう…。

〔もどる〕
人間と宗教


 この夏休み、町での人間関係から切り離された環境の中で、
「この暮らしには宗教というものは不似合いだ」と感じた。
豊かな自然がある農村地帯だからではない。
実際、私はそんな田舎の暮らしの中でキリスト教信仰に出会った証人のひとりであって、
田舎にはキリスト教が不似合いだなどと言えるはずもない。
そうではなく、私が感じたのは、何のしがらみもない見知らぬ人間たちの間で、
傍観者のように過ごすことの出来るわずかな期間だけ感じることが出来た解放感なのである。
田舎であろうが、その地域に住めば、やはりいろいろと起こるだろうから、
その解放感は一時の風でしかない。
でも、その風の心地よいこと…。実に癒された。

 都市化した暮らしの中での人間のストレスと、宗教の発展の関係について、学んだ記憶がよみがえる。
宗教というものは、人間の暮らしを抜きにしては有り得ない。
神についてだけ語れば良い?
都会の、出来上がった信仰のシステムを維持するだけなら、それでも良いかもしれないが、私は違うと思う。

 私は、自分が織り上げる説教の中に、
「人間の生活・生活臭」という模様を織り込むことの出来る者になりたい。
はるか遠い理想かもしれないが、主が導いてくださるようにと願う。

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自己正当化


 「プロテスタントは適切な意味では教会でない」との発言を
10日にバチカンが発表した。
カトリック新聞には「カトリック教会の唯一性と真性を確認」という見出しと共に、
平然とこの記事が掲載されている。
しかし当然のこと、
世界各地のプロテスタントから多数の抗議的声明や質問状が出される事態となっている。

エキュメニカル(教会一致)運動による対話が進められてきた状況で、
どうして唯一性・真性を主張しなければならないのか?
唯一というのは「教会とはカトリックだ」と言うことであり、
真の反対は偽になるのではないか。

 悲しいことだが、目くじらを立てるつもりはない。
主イエスが教会の拠り所であるから、
私たちはカトリックの「一部の」声を相対化することができる。

 ある存在が自己正当化をしようとする時には、
自分の中にそれをしなければならない負の理由があるのであり、
それを主張することで他者を傷つけることなど
見えなくなってしまっている場合が多いものである。

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さよなら、サイレント・ネイビー


 地下鉄サリン事件の主犯として死刑判決を受けた者たちを、
生かそうという署名運動にご協力いただきたい。

 実は、私の机の上には、何か月も前から署名用紙があった。
署名すべきだと理屈では分かっていた。
でも感情の整理がつかなかった。

 家族の会の方々とお話ししても、なお煮え切ることが出来なかった。
この様な時、正しい判断のための助けとなるのは、偏見を取り去るだけの知識である。

 私はオウムの脱会者の文章を読みあさった。
痛みが伝わってきた。
そして、最終的には、『さよなら、サイレント・ネイビー』という本により
深い悲しみに出会わされ、これに後押しされて決断できるに至った。

 この本は、東大准教授の伊東さんが、
実行犯のひとりで大学の同級生・親友だった豊田さんのことを書いているものだ。
この豊田さんが私・豊田であっても何らおかしくないと、私は思ってしまう。

どんなにつらくとも生きて、その罪を生涯かけて償ってほしい。
同じ空の下で生きる、豊田さんへ、豊田より。

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クマゼミ


 昨日、今年初めてのセミの鳴き声を聴いた。 クマゼミだ。私の故郷にはクマゼミはいない。昼間はあぶらぜみ、みんみんぜみを追いかけ、 夕暮れにはシャワーのように降り注ぐひぐらしの声を聴いていた。 今でもカブトムシやクワガタがごろごろしているような田舎だが、 みんみんぜみを糸で縛って飛び回らせる遊びがいちばん好きだった。 そして昔はあった昆虫採集セット、どれ程たくさんの虫に注射針を刺して毒液を注入したことか分からない。 よくもあんな残酷なことができていたものだと思う。きっと子どもというのは残酷なものなのだろう。
 親元を離れ、山奥から平野部に移り住んで、初めてクマゼミを見た時はわくわくした。 あの美しい緑色の模様、透き通った羽根…。網を持って追いかける年齢ではなくなっていたけれど、 クマゼミは私が遠い町で暮らしていることのしるしのように感じた。
 吹田ではどうやらクマゼミがいちばん多い。クマゼミの大合唱に閉口する夏がやってくる。 この夏も遠い町で元気に暮らしていけますように。

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私はなりたい


 ヒゲの殿下がアルコール依存症のため入院治療を受けると、隠されることなく報道されたことに驚いた。 どうして「体調不良のため入院」ではないのか?背景など知るよしもないのだが…。
 アルコール依存症…、大変だろう。私の父もそうだった。 家族関係は崩壊し、経済的には困窮し続けた。 それでも、自分の知る家族はその家族だけだから、異常な環境の中で自分が育っていることを実感できなかった。 そして、みごとに歪んだまま、大人になってしまった。 私が人を苦手とすることや、様々な弱さや不安を抱える原因も、そういう家族関係の中で育ったことにあるらしい。 アルコール依存症は、過度の飲酒による健康被害だけの問題ではなく、家族を破壊し、長く影響を及ぼす、つらく深刻なものなのだ。
 父を隔離設備のある専門病院に入れ、1年と少し費やした後、老人ホームに入ってもらった。 幸いなことに、今のところ禁酒出来ているようだ。しかし、もう二度と家族皆が顔をあわせることはない。 母・妹は逃げてしまった。帰る家もなくなった。私は生きる限り悲しみを背負い続けるだろう。 ただ、せめて私の代で、家族関係の悪い連鎖を断ち切ることが出来れば…。 家系など信じない、関係性の問題なのだ。 娘たちに、そしてたぶん孫たちに、幸せな笑顔を見せられるじいちゃんに、私はなりたいと願う。

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それ、本当に幸せ?


 本の広告を見て爆笑した。手相をマジックで書き足すと、人生が大好転するらしいのだ。 昼は銀で、夜は金で、せっせと手のひらに落書きをする大人が結構いて、解説本がよく売れているのだそうだ。  (牧師いわく:「頭脳線書け!頭脳線!」)
 手相占いは世界中にあり、すべて土台は占星術にあるという。 日本には奈良時代くらいに中国から伝わったらしいが、現在の日本の手相占いは大正時代以降に入ってきた西洋起源のものだそうだ (西洋では利き手、東洋では男性は左手・女性は右手を見るのが基本だが、かなり適当…)。 手のひらを太陽系に見立て(星座はあまり関係ない)、手のひらに宿る小宇宙の神秘を読み解くわけだが、 今では通用しない何百年も前の天文知識を土台として考え出されたものに、絶対性を求めることなど不可能だろう。 言い逃れからか「手相は統計学だ」などと手前勝手なことを言う者もいるが、誰かが統計調査をした話など聞いたことがない。
 秀吉は小刀で手相を書き足したという逸話があるが、欲しかった幸せを苦労して苦労して手に入れても、 それが苦悩をもたらすことだって、人間にはあるだろう。私たちは、不幸のタネを望んでしまうことだってあるのだ。 マジックごとき遊び、線を引くことを止めはしない。でも、その線は本当に幸せにつながるのかな? つらいことや、耐えることは、人生に無駄で不必要なものなのかな? 手のひらに視線を落とすよりも、青く広い空でも見上げてみてはいかが?

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ゼロトレランス


 これは「不寛容」または「毅然とした対応」と訳される教育方針のことだ。「割れた窓」からは風が吹き込んでくる。従って、どんな理由でその窓が割れたかなど関係なく、「割れた窓」を速やかにはずし、周囲への影響を最小限に留めようとするわけだ。つまり、スクールカウンセリングなどという生っちょろいことをやっていないで、生徒・学生の問題行動に対して厳罰をもって対処していくことで、荒れた学校を「健全化」しようということらしい。
 文科省も導入を検討しているというこの理論は、かつてクリントン大統領によりアメリカで一気に広まったものだが、これを日本で宣伝しているのは統一協会の息がかりの学者くらいである。その効果はアメリカでも疑問視されているし、日本でこれを導入した学校が幾つかあるが、そろって悲惨な状態になっている。
 当然だろう。力と恐怖で人間をおさえこもうとすることが教育のはずがない。そして、力と恐怖でおさえこまれた人間が、憎悪と敵意を感じずにいられるわけがない。導入直後には確かに問題が沈静化するのだが、その後、更なる嵐が吹き荒れるのだ。安易な力に飛びついてはいけない。私たちの模範は、常に、イエス・キリストの生き様の中に示されている。

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 「蛍が出ましたよ」と誘われて、知人が牧師をつとめる教会に行った。震災の後、天に召された○○牧師の妻が、現在の牧師だ。あの時、まだ小さかった末の子は、父のことをほとんど覚えていないだろう。
 私は、彼を知っている。高校生の時、彼に出会った。私は信仰を失っていた。「人の中には神に出会わぬ者も、信じようとして信じられぬ者もいるのだから、信じる者だけを恵むという神なら完全ではない。もし神がいて、その方がまったく善であるなら、必ずその方は万人に恵みを与えてくださるだろう。ならば、神を信じても、信じなくても、私には失うものはないのではないか?」。その私に、彼は「求め、祈る者がいただくことができる幸い」を諭してくれた。神は正しい者にも悪しき者にも陽の光や雨を等しく与えられる。でも私は軒下にいる。神にあこがれているくせに、軒下にいて、ひねくれている。私は自分が惨めだということ事実を知った。
 恵みを受け取るために、たった一歩踏み出す自由が、私に与えられている。いろいろあったが、私は今も教会にいることを選んでいる。願い求めるものは度々変わり、願う通りに与えられもしなかったが、神は共にいてくださった。淡い蛍の光を見つめながら、生かされている一瞬の恵みを楽しんだ。

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おまえ


 聖書の原典は固定された本ではなく、研究によって随時更新されていく。 だから文語訳の時の原典と今の原典は若干だが違う。 その翻訳版を手にするのだから、新しい翻訳が出ることは好ましい。 ところが、翻訳には翻訳者の個性が現れるし、それ自体が解釈を伴う。 文語訳が好きだという方が多いだろう。私もそうだ。いい翻訳だ。 しかし古典の授業を受けるまで、主の祈りの意味さえ分からない現代人に文語訳は難しい。 口語訳は文語訳を現代語に書き直したようなものだから、そんなに大きな違いはないのだが…。 正直に言って、新共同訳はツライと思う。 もっと言葉を大事にした口語訳を、最新の研究成果を取り入れて作ってもらえないか?  私は切にそう願っている。
 さて、タイトルの「おまえ」だが、これは新共同訳の旧約書の中で、たとえば神がヨブを呼ぶ時の言葉である。 文語訳では神も人も「汝」だった。汝は目下の者に使う言葉だが、神と人とは対等で、信仰理解による斬新な翻訳だった。 口語訳では互いに「あなた」である。これも対等であり、相手を気遣う言葉である。 ところが、新共同訳は「おまえ」と言う。神は人を重んじ、同じ高さに立ってくださった方だというのに、まことに台無し…。 「おまえとは何事だ」と私は言いたい。

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適材適所


 国際指名手配を受け逃亡中だった宗教団体「摂理」のド変態教祖が逮捕され、少々周辺が慌ただしい。 情報が少なくニュースとして弱いからだろう、 大学で新入生を狙うカルト宗教の活動報告と抱き合わせでマスコミは扱いたいらしく、 接触をはかってくる。う〜ん、○○アナは見たい気もするが…。でも、もし彼女の前で教祖のド変態ぶりを熱弁しすぎて、 大変なことになってしまったら…。自覚している、話し下手の私はテレビには向かない。
 経験上テレビ局(特にT?S)の取材は嫌いだ。 先日も真夜中に情報提供の依頼のメールが局から届いて、電話をくださいと書いてある。 “どうして私があなたに電話をしなければなりませんか?”とメールで返事を書く私も親切すぎるが、 ああいう職場にいると感覚がマヒしてきて、人が情報源の積み木のひとつみたいになるものなのか?  でも、見ず知らずの相手(少なくとも専門家)に突然メールを送ってきて、電話くれという担当者が作る報道番組が、 まともで大丈夫だろうとは私には思えない。
 適材適所って言いますが、なかなか難しいものですね…。

〔もどる〕
キリストの棺


 「イエスとその家族(妻・息子)などの墓所を発見した」という内容の 「キリストの棺(The Last Tomb of Jesus)」という番組が、今年3月にアメリカで放送された。 カトリック、プロテスタントだけでなく、ギリシャ正教からも批判されている点で珍しく、放送反対とか、 ケーブルテレビの解約運動が起きている。この「キリストの棺」という番組自体は、 ダヴィンチ・コードに近い内容のようで、遺伝子解析などの科学的な装いをしているものの、全く信憑性に欠けると思われる。 99.9999…%、真実ではあり得ない。
 でも見てみたい。ダヴィンチ・コードでルーブル美術館を楽しめたように、 「キリストの棺」では約2千年前のイスラエルの墓所の映像を見ることが出来る。写真とは迫力が違うはずだ。 それを見るだけでも充分な価値がある。日本ではディスカバリーチャンネルで6月24日の午後7時から放送されることが決まったそうだ。 やっぱり放映反対運動が起こるのかもしれないが…。  とにかく、本題に入ろう。実は教会ではケーブルテレビの有料放送を見ることが出来ない。 それで、どなたか録画してくださいませんか? 有害な(?)情報に触れさせないという考え方もあるだろうが、 触れた上で何が違うのか考えてみることにも価値があるのだから、毛嫌いして目くじらを立てるばかりでは、幼稚というものだろう。
 どなたか、お願いします!!  (←見ることができました! 近々、主日の午後にでも、解説します)

〔もどる〕
9条のキキ


 うちの犬の名前はキキという。
『魔女の宅急便』の主人公キキから名をとった黒犬である。
この犬の尻尾は、1回転から更に少し丸まっていることが多い。

 先日、この尻尾を子どもたちが数字の「9」に見立てた。
合わせて「9条のキキ」である。
何の役にも立たない犬だと思われていたが、
全身で平和主義をアピールしている素晴らしい犬だったらしい。

頑張れ!キキ。

 子どもの発想の中に9条問題が出てくるとは、恐ろしい時代になったものである。
イラク戦争を越えてから、もうズルズル戦争へと地滑りしていくしかなくなっているのか?

 多数派を取れば数の暴力で何でも出来る。
権力者が「〜とは思わない」、 「その理論は分からない」と言えば、
それが浅知恵からだろうが、開き直りからだろうが、話はそれでオシマイ。
聞き分けのない幼児みたいなものだ。
「いい先生に出会って来なかったんだな」なんて分析してみても仕方ないが、
そんなお子様に権力という凶器を持たせれば、
周囲も自分も傷つけて終わることになると、相場は決まってっている。
国民投票法案で、私たちは更に一歩、危険な方向に近付いている。

 結局そういう政治家を選んできた国民の責任は重い。
子どもでも「9条を守る」ことに関心を持っているのだ。
あきらめるわけにはいかない。

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戦争なんか嫌


 沖縄戦では「軍による」集団自決の強要がされたという記述の「」部分が、 高校の歴史教科書から消えるそうだ。2005年8月、 大阪地裁に提訴された大江健三郎さんと岩波書店を被告とする名誉毀損裁判により、 この自決強要は「議論ある問題」となり、よって事実として教科書に書かれるべきではない事柄と判断されたわけだ。 この裁判、次回は5月25日に口頭弁論がある。
 慰安婦問題でも、物的証拠がないという言葉をもって、事実そのものがないと言いたげな政治家が、 国際的にひんしゅくをかっている。ある英語圏の新聞では「恥を知れ!!」だそうだ。 私も同感であるが、日本のメディアは腰砕けなのか、失言で辞める政治家などもう現れないのかもしれない。 民放の報道が右に傾きすぎているよう感じるのは、視聴率競争のせいだけか…?
 防衛のための戦争なら出来る「当たり前」の国になることに固執する者たちがいる。 憲法9条や歴史認識を変えようとしているのも彼らだ。 しかし、庶民の当たり前とは、いかなる時にも戦争を回避する為に全力を注ぎ、日々の暮らしを守ることだと考える。 戦争なんか嫌!!という当たり前を叫ぼう。

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代理母出産


 最高裁は、代理母出産により生まれた子と、精子・卵子の提供者である両親との間に、 法的な実の親子関係は認められないとする決定を下した。分娩主義の判例があるから、この判決は予想できた。 以前、祖母が代理母となり孫を出産したこともあるが、 この時は養子縁組により親子関係になっているので法的には問題なかった。 ただ、これも公表されたケースだからこそ注目されたのであり、一個人がどう妊娠し出産したかなど、 役所はいちいち調査しないし出来ないというのが現実であろう。
 私のような素人でさえも、仲介する会社を簡単に探せるくらい、代理母出産という選択肢は既成事実化している。 幸福追求権から考えてみても、子を欲することに何の問題もない。 民法がここまでの医療技術の進歩を想定していないのが悪いと思う。 私はこの敗訴した両親の勇気を称えたい。虚偽書類であることを承知し、 代理母出産の事実を隠して出生届を提出し、受理されて家族となった者たちも相当数いるはずだ。 そういう家族たちは、名乗りを挙げるわけにいかないだろうが、きっと応援していることだろう。 そして私は思う。法的にどうであろうとも、求め合って存在する家族なら、きっと幸せな家族に違いない。

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大犬の睾丸(オオイヌノフグリ)


 春の訪れを感じさせる青紫の小さな花。私のいちばん好きな花ですが、名前がひどすぎます。オオイヌノフグリ…。 実の形が犬の「キ○玉」に似ているというのが由来だとか。別に似ているようにも思えないのですけど…。 「花に注目して!」と強く主張します。
 学名はベロニカだそうです。聖人ベロニカ…。伝説ではありますが、十字架を背負い、苦痛と嘲笑の中、 ゴルゴタまでの道を歩くイエスに、エルサレムに住む主婦ベロニカは、 したたり落ちる血と汗を拭うようハンカチを差し出します(拭ってあげたとのバージョンもあります)。 すると、そのハンカチには、イバラの冠をかぶったキリストの顔が写し取られていたそうで…。 サンピエトロ寺院にこのハンカチは保存されていて、映画パッションでもこのシーンがあったそうですね(私は見ていません)。 また、聖母マリアの服の色も、この花の色に似た青紫だとされています。
 花を見つめていると、花の中にキリストらしい人の顔が浮かびあがってくるという話です (私は見ていません、見えたことがありません。見えるのでしょうか?)。 でも、今年こそは見てみたいものです。散歩するしかありませんね。今週は暖かい日がありますように。

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川内康範さん


 森進一騒動が気になる。正確には川内康範さんが気になる。 この人の職業と思想をどう表現したらよいか分からない。 「おふくろさん」の作詞家、「海外抑留日本人の帰国運動や戦没者の遺骨引き上げ運動」の先駆者、 統一教会万歳だった頃の福田赳夫の秘書、映画監督、小説家、月光仮面やレインボーマンを作った人、 まんが日本むかし話もこの人の監修らしい。 (私の中ではレインボーマンの印象が強烈である。変身の呪文がお経だったことは後日知ったが、 インドに行って修行して超能力を身につけることにあこがれた子どもは、きっと私だけではないだろう。)
 いかめしい面構えであり、右翼として扱われることもあるおっさんだが、憲法9条護持にこだわるし、 インドのガンジーの非暴力・不服従主義を評価する人でもある。 何というか、戦争を直視した人なんだなあと思う。戦争の悲惨さ、愚かさ、貧しさ、そこに向かう怒り、 そういう生活の中での「特に」母親に向かう思いが、この人の作品にはある。 ワイドショーの情報から「へんくつ親父」という印象を持つ人もいるかと思うが、 思いを踏みにじった森進一の負けだな…と私は見切りを付けている。

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赤ちゃんはどこに届くのか?


 熊本市の慈恵病院に赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」が設置されるかもしれない。 慈恵病院はカトリック系で、中絶手術をしないことや、性教育に熱心に取り組むことなどで、これまでも特色のある病院だった。
 中世ヨーロッパの修道院にも見受けられるこの制度により、 日本では年間200件ほどもある捨て子の命を救おうという発想を、理解することはできる。 しかし、6年前にこの活動が始まった先進国といわれるドイツでも、 (国内に80カ所程のポストがあるそうだ)法的にも感情的にも今なお議論が続いている。
 赤ちゃんをポストに入れて、命を救おうということは分かる。 生まれたからには、生きていってほしい。しかし、世の中には様々なルールがある。 ポストに入れられた赤ちゃんは、その後どこに届けられるのだろうか。 児童虐待防止法や保護責任者遺棄罪との関係はどうか。 里親を探すにしても、親権者の同意が明確でないケースが大半だろうから、難航することは必至だ。 病院は修道院でも養護施設でもないから、赤ちゃんは乳児院などに保護されて育っていくことになるだろう。 衣食住、教育などに必要なコストは税金で負担されることになるが、市民に人間を請け負う覚悟はあるだろうか? 賛成は賛成なのだが、人の一生はポストの中だけで終わるものではない。悶々としている。

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タミフルは飲ませない?


 インフルエンザになったという者が、周囲でも現れ始めた。 気になるのは症状を緩和するというタミフルのことだ。 服用(特に初回)して数時間後に、突然死や異常行動を引き起こしたという報告がかなり多い。 そういう副作用の存在は公式には否定されているが、やはりおかしいとしか思えない事例が幾つもある。 金曜日にも中学生が10階から転落死した。
 世界のタミフルの3/4を買い占める金持ち国ニッポン。利権も絡むことだろう。 薬害を明らかにするのは、実に難しいことと思う。ならば今は自衛的対策を取るしかない。 私は家族がインフルエンザにかかっても、タミフルを飲ませることを拒もうと思う。 基本的には寝ていれば治る病気なのだ。 また、別の判断を持ってタミフルを飲ませようという方には、 それを飲ませ「寝てなさい」と指示して目を離すことはやめるようお願いしたい。 高熱も出る、そばについていてあげて欲しい。 なお、熱がひいて、家族が安心して目を離した後に、異常行動が起こっている事例も多い。 熱の後にこそ注意が必要だ。
 とりあえず、今これを読んでいる方は健康だと思う。
  1.充分に睡眠、栄養を取り体力を維持しておく
  2.湿度を保つ(50%程度)
  3.帰宅時にうがい、手洗いをする
  4.マスクをする
  5.人ごみを避ける
  … 予防に努めましょう!

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さわる


 お店で釣り銭をくれる時、
  1. 両手で包み込むように過剰演出する人
  2. 片手で丁寧に渡すという人
  3. 絶対にこちらの手に触れないようにする人 がいます。
 どれがお好みですか? 私の場合、1.だと「相手による」というオヤジ的感情が若干芽生えますが、基本的に気恥ずかしい。 2.がやはり普通でしょう。3.だと投げられているようで不快ですし、時々落ちたりしてしまいます。 でも、潔癖性の人とかは、さわられたくないでしょう。 逆に、差別されている病気で苦しむ人とかは、こっそり人に触れてほしいと願うかもしれません。 うちの犬は、とにかく飼い主に触れていたいようです。子どもたちは、今はどうでしょうね? 私はもう、長女に触れるのはちょっと怖いです…(いつ頃からかな?)。
 イエス様はさわります。手にも、足にも、目にも、耳にも、舌にも、頭にも、そして死体にも。 言葉だけじゃ伝わらないものがあるのでしょう。目の前にいても埋まらない距離があるのでしょう。
 どうですか? あなたもさわってみませんか! 新しい世界が広がるかもしれませんよ。  (くれぐれも相手には注意してください)

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誠実な者


 ペコちゃんが哀れで言うわけではないが、人は神と富とに兼ね仕えることは出来ない。 富を目的にし、更には手段を選ばなかったことで、企業が謝罪することが実に多くなっている気がする。 目的も手段も問い直してみる必要がある。
 一般的に、目的のために手段を選ばない奴を悪党という。 しかし、目的というものは大抵の場合、自分にとって正しい。 自分の価値観に沿うことが、善となりやすいからだ。だから目的を問い直すことは難しい。 それに比べて、手段を問い直すことは簡単だ。自分を絶対視しないなら、常に新しくされるチャンスがある。 迷いながら、悩みながら、手間暇かけて最善の仕事を目指せばいい。 富を得るためなら、そこまでする必要はないだろう。 けれども、富にではなく神に仕えることを求めるなら、私たちの生活のすべてが献げ物となる。 愚かな手段をもって良しとすることなど、出来るはずがない。 この故に、神を愛して生きる時、人は他者に対しても誠実な者になることが出来るのであろう。

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エコカッコイイ


 昨日の水道工事の間、溜めておいた水で対処したのだが、トイレに行った後そのまま出てきて、 洗面器1杯の水で手を洗ってから、それをトイレに流す。プチ災害訓練だ。 阪神淡路の地震後も、水道の復旧には何か月もの時間がかかった。トイレには皆困った記憶を持っているだろう。 もちろん炊事も洗濯も風呂もそうで、水なしに私たちの生活は成り立たないのだが…。
 洗面器1杯の水で手も顔も洗う。その水さえ無駄に捨てない。こういうスタイルは、水道では学べない。 私は思い出していた、「昔は井戸水をこうやって汲んでいた」(何歳なんだ?私は)。 田舎者の暮らしの近くには井戸があった。タオルは似合わない、手ぬぐいじゃないといけない。 着物の方が絵になるかもしれない。洗面器1杯の水が呼び覚ますのは、妙に日本人的な感覚だ。 事実どうかは知らないが、欧米の方は何でもジャカジャカ消費し、それを豊かだと思っている印象がある。 古き日本のエコ暮らし、結構カッコイイんじゃなかろうか。

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納豆ダイエット


 この実験データや研究者の発言内容がでっち上げであることが発表され、今日の番組は放送中止だとか…。 「あるあるで納豆がないない」から「納豆であるあるがないない」になってしまった(-_-;)  テレビの取材は甘いというか、自分たちの意図に沿った番組を作るために乱暴な仕事をすることについて、 これまでも経験してきたのだが…。やられた!
 ダイエットには関心の高い我が家が、納豆を食したのは4日ほどだった。 納豆を買うためにスーパー巡りをし、3件とも品切れだった日に止めてしまったからだ。 とんだ結末になってしまったが、同じ穴のムジナ、苦笑いするしかない。
  「〜が健康に良い」という情報が、毎週幾つかの番組で紹介され続ける。 ダイエット関連も次から次だ。もともと自分にニーズがあり、嘘のデータでも「なるほど」と納得するから、 「ダメもと」で信じてみる。宗教にだまされる人だって、入口はこんなものなのだろう。 気をつけないとなぁ、簡単に信じちゃうから。

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心の中の小ビン


 人と共に生きようとする者は、自分の心の中にたくさんの小ビンを持っていなければならない。 そして、その小ビンにはフタが付いていなければならない。 「今日あの人はこんなひどいことを言った」、それを聞き理解したらフタをキュッと閉める。 フタを閉めるのは、胸をしめつけるような言葉が漏れ出して、周囲に拡がらないようにするためだ。 悪い言葉がこぼれ出してしまうと、新しい言葉を受け付けられなくなってしまうからだ。
 心が強いから、それが出来るのではない。肝心なことは、その人を信じ続けようとするかどうかだ。 傷付けられること、裏切られることは、本当に怖い。「もういいじゃないか…」と思う時だってある。 けれども、今日とは違う、新しいことが起こる日がやって来るかもしれない。 だから、その日まで、こんなにも弱い心が壊れてしまわないように、 私たちにはいくつもの小ビンを用意しておく必要があるのだ。
 相手を変える強い力に私たちはあこがれる。 でも、信じ続けることを選び取っていくことの出来る愛こそ、最も価値あるものなのである。

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闇の中の光 〜アーミッシュの村の事件から〜


 これがキリスト教なのだと、ぶん殴られ、正気に帰らせられるような気持ちだ。 私の感情は「もし銃を突きつけられたのが自分だったら」という方向に向く。 かつてコルベ神父も、コロンバイン校の被害者も、今回の被害者の少女も、信仰と共にあって死を引き受けた。 殉教…、殉教である。アーミッシュの習慣から考えれば、少女はまだ洗礼を受けていないと思う。 その状態にある者を未信者と教会は呼ぶ。 しかし、神の国が少女のただ中にあることを、疑い得る者はいないだろう。 また、村人たちが、犯人の家族に見せる姿勢も、なんと崇高なものだろうか。 ただ黙して耐えるというのではなく、対話と交わりにその人たちをも招こうとすることは、 確かなキリストの僕の姿なのである。
 暴力と憎しみの連鎖は、世界を不安と怒りの闇で覆う。 戦争、テロ、対立、核実験…、闇は今ここにある。 世界の闇の中で、殉教者の命の光など小さいものだろうと思うのに、この光は凛としており、強い。 私はうなだれて考えている。私は何をしているのだろうか。

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神経症は君だけじゃない


 駅周辺で見かけるこのポスター、明るい笑顔がならんでいて、 「こんな時代だからなぁ。人ごとじゃないよなぁ」と、好意的にながめていた。
 ところで、先日、このポスターの前を通り過ぎようとすると、チラシが入っていることに気が付いた。 当然、引き返して読んでみる。習性だから仕方ない。そして、びっくりした!  医療機関じゃないから、本当の病人は来るな、という内容が書いてある。医療行為ではないとも。 要するに、「不安感を克服し、自信を回復したい人」、 「希望、生き甲斐を見つけたい人」はいらっしゃい、ということらしい。
 帰宅して調べ始めた。メンタルヘルス友の会か…、真流一の会というグループが母体みたい…。 親鸞会の分派のダミー団体らしい…。薬を拒否する危険なうつ病克服法を推奨し、 (因果関係を明言できないが)自殺者も出ているようだ…。 玄米食などを中心とした「黄金食」で時々マスコミにも登場している…。 まるっきりカルトじゃないか…。そうなのか、医師法や薬事法違反で摘発されることを警戒しているんだ…。
 自助グループが町じゅうにポスターを貼って勧誘行為をするなど、 よくよく考えてみれば、おかしいことが分かる。 でも、こんな心やさしいキャッチフレーズを掲げられたら、信頼したくなってしまうじゃないか。 「こんな時代だからなぁ。人ごとじゃないよなぁ」である。カルトはすぐ身近にいるのだ。

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聖書の読み方


 「舌切り雀」は、「人間には本来鳥と会話できる不思議な能力が備わっている」という話である。 そして、「花咲かじいさん」は、「おじいさんが枯れ木に花を咲かせる夢の肥料を開発する」という話である。 なんという発見だろう!、この21世紀に、ついに私はこれまで誰も達し得なかった、新しい解釈に到達してしまったのだ。  (^^)//パチパチ
 さて、誰かがツッコんでくれないと、私の暴走は止まらないかもしれない。 でも、この解釈が正しいか否か、どうすれば判断できるのだろうか。 常識的で伝統的な解釈ではなく、「新しい」解釈を私はしているのだから、 奇抜すぎるという批判など気にするものではない。 むしろ「特別な力を与えられた者のみが、この解釈の真実なることを知るが、 凡夫は決して理解しないだろう」などと、うそぶいてみるのもよいのだが…。
 アホらしい話であるが、ねじ曲げて読むなら、こんな解釈だって可能になってしまう。 最近受けた聖書解釈の質問に、私はかなり面食らってしまって、こんなつまらない例話を考えてみた。 人が聖書に向き合うときには、それなりの「人生の理由」があるはずだと思っていたが、 必ずしもそうとは言い切れない状況があるようである。
 聖書をどのように読むか? 単純なことだが、まとまった一単元を何度もかみしめるように読んでみる。  それだけでおかしな解釈の大半は排除されてしまうことだろう。

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